座談会・反核・平和運動の現状と今後

広島原水禁 松江 澄

護憲連合  牟礼敦巳

平和事務所 吉田嘉清

 

 労働運動研究 掲載

 

「反核・平和運動の現状と今後」を、長年運動にたずさわってきた平和事務所の吉田嘉清、護憲連合の牟礼敦巳、広島原水禁の松江澄の三氏に、今日までの運動の実情、それをもたらしたものはなんであったのか、今日における運動の中身とはなんであるのか、今後の発展の展望について、忌潭のないご意見をお願いします。〔編集部〕

 

原水禁運動と世界の反核・平和運動

 

松江 昨年の夏、若い人たちが三十一歳になるフィリピンの青年を連れてきた。彼がぼくに言った。「日本の運動に一つ提言がある。一年ぐらい八・六の集会をやめてみたらどうですか」と。私は「君のショヅキソグな提案に賛成だ」と答えたが、これは日本の運動にたいするきびしい逆説的な批判だと思う。

 ぼくが、広島の人間として反省していることの第一は、広島の八・六というものを歴史から分断して原点化する傾向が強かったことだ。だがそれは日本の侵略戦争の帰結であり、同時に新しい核時代の起点でもあった。そこで八・六を歴史のなかに返しながら、いま広島が求むべきものは何か。何を追求すべきなのかを考えなければだめだと思う。それは必然的にアジア・太平洋の民衆との連帯のなかで、広島がどういう役割をはたすべきなのかを問われている。

 もう一つは、日本の原水禁運動は、八・六、八・九の広島・長崎のイベントに代表されるカソパニアの形でしか出てこなかったことだ。それはそれなりに重要だと、いまでも思っているが、それがそこだけからの発想でなく、自分の足元から核の危機にどう迫るのか、どうたぐり寄せていくのかが出てこないと、広島・長崎の八月カンパニアは宙に浮いてしまうのではないか。

 三つ目は、日本の運動は何か最大公約数のようなものがあって、意見が違うと切り捨てて、一致点、一致点と言っているうちに宙に舞い上がって、最後は「核のない社会を」が一致点だということになる。いまは、単に文脈の最後が反対で終るのではなく、核のない社会をめざし内実的にどんなものをつくっていくかが必要なのだが、そのためには、いまの体制が生み出しているさまざまな問題――失業、権利、また政治情勢的にいえば靖国の問題、天皇カンパニアなどのどろどろしたものが、それぞれ独自に闘われながら、それでいてそれが反核運動の内容を形成するようなものとして追求されなければいけないのではないか。ぼくはこの三つの点が反省とあわせて克服しなければならない問題だと思う。

 そういう点で、今後、総評その他の動向いかんでは、日本の原水禁運動といわれるものがどうなるか、重要な時期にさしかかっている情勢のもとで、下からの自立的な諸運動が、労働組合とも連携しながら、新たな運動を形成しなければならない重要な節目にきているのではないか。そういう視点から、原水禁は原水禁として追求しながら、同時に若い活動家たちと、二・一一、四・ニ九、八・六、八・一五と、できるだけ自立的に連合しながら、広い運動につながっていく、あるいは労働組合とも結びあっていく方向を、もう一回探求し直そうと思ってやっているところだ。

 

 牟礼 いままでの運動の成果と反省は、吉田さんが実感として持っていると思うが、ビキニでの被爆を契機とする五〇年代の原水禁運動は、今日いう草の根そのもの、下からの根の広い、また国民を大きく統一した力のある運動だったと、私は思う。それは、五〇年代、六〇年安保の後までつづいたと思うが、六〇年代になって国際的なさまざまな影響もあって、また国内的にもいろいろの思惑があって、日本原水協が六二年から六三年にかけて分裂し原水禁が出来る。そして世界大会だけは、七七年に統一する。そして今日また分裂しかかっている。

 日本の原水爆禁止運動、反核運動は、初期には広島の経験を世界にアピールしていく責任を、ある程度はたしたと思う。六〇年代になって分裂すると、国際的にも来る人たちは当然片寄るし、運動も広がりが失われ、広島などからはけんかするためなら、来なくていい、来てくれるな、ということになり、市民の参加もなくなっていく。

そういう点で、これまでの日本の原水禁運動は、何をくりかえしてきたかをまず反省することが、最初の出発の時点、初心に帰ることが大切ではないか。

 もう一つ言えるのは、日本の原水禁運動は、ヒロシマ・ナガサキの実相を広く世界に訴えていく運動では、それなりの大きな歴史的役割をはたしたと思う。いま、核が人類にとって大きな脅威になる時代になって、その実相を実情にあった形で運動を展開していくのか、あるいは何と結合して、より今日的な次元の原水禁運動のあるべき責任、役割をどうはたすのかという点では欠けている。あまりにもヒロシマ・ナガサキの実情、被爆ということだけが中心になりすぎた嫌いがある。もちろん、私はそれを否定するわけではないが、時代が変化するにしたがって、その持つ意味と歴史的役割を、今日的次元でとらえなおすということが足りなかった、という感じがする。

 

 吉田 七八年に第一回国連軍縮総会があった。それは非同盟運動と世界の反核平和運動が、あまりにもひどい軍拡競争に対し、発展や開発の問題をふくめて転換を迫るためにひらかれた。一つの民衆運動と国際政治が切りむすぶという形でその時は一定の高揚期だった。今の状況はどうかというと、国際的には八○年のヨーロッパの反核運動が、いろいろな国の反核運動を激励して、八三年が運動のピークになった。そして、いま、ヨーロヅパの反核運動は、総括の時期に入っているが、あの時は信じられないような大衆運動の力が西ドイッ、オランダ、ベルギー、イギリス、ノルウェー、ギリシャ、スエーデン、デンマークと、フランスを除く欧州諸国に成盛り上がったのは、SS20に対するパーシングUと巡航ミサイルの配備に反対する闘争だった。

 ヨーロッパの反核運動は、こうしてブロック反対・反核運動、いわゆるNATOとワルシャワ条約のブロック対決に、民衆が割って入るという反核運動が自立的に展開されたので、世論の支持を受けて大きくひろがった。その背景には、核軍縮以外には生き残る道がないことを認識した運動へと思想的にも転換が迫られて、自立的反核運動として成長したわけだ。

 しかし、巡航ミサイルの配備は諸国民の反対にもかかわらず強行されていった。そのなかでヨーロッパの反核運動は、いま、運動をどう見るのか、成果をどう見るのか、今後の展望は、という形で、外的には一種の停滞期に入っている。内的には総括をして次の反核運動をどう生みだすかというところにある。

日本の反核運動もこれとまったく無関係ではなく、同じ問題にぶつかっている。日本の場合は、八四年六月にトマホークの配備があったが、その時に全人民的反トマ闘争をそぐかたちで原水禁運動のゴタゴタが起きている。

 ヨーロッパでは大きなデモンストレーションが起こって国際的な影響「をあたえ、その結果、いろいろな非核政府がつくりだされている。ニュージーランドの非核政府、バヌアツの非核政府、北欧の政府も限定的には非核政府といえるし、ギリシャも非核政府をつくりだしている。そして、これからどうなっていくかという時、イギリスの核武装反対運動ロCNDなどは一方的核軍縮政策を政府にせまりながら、会員がどんどん増えている。本部の有給専従者は三四名だが、ボランティアを入れて約一〇〇名の人が活動している。全会員は五〇万、新しい大衆的な教育をやりながら、保守層にも喰いこみ、核軍縮への転換を自国政府にも国際的にも迫っていくということを、生き生きとやっている。

 今年の復活祭は各地で行動がおこなわれ、人数こそ落ちているが、それでも西ドイッでは三四万人が集まってデモをやっている。

 日本の運動は、今の話にもあるように、初めはあきらかに横型の草の根運動だった。それがいつか、私などの責任が大きいが、縦型の運動になってしまった。これに対する反省が七八年、八二年のイベントのなかで出たが、やりとげる前にいろいろなことが起こってしまった。だからいまは日本の運動をどれだけ横型の運動に変えられるか、そして縦型の運動がこれを激励するものに変えられないだろうかを考えている。

 五〇年代からの運動をふりかえってみると到達点はいろいろある。五〇年代の草の根運動は当然核兵器と人類は共存しえないものとしてやられたのだが、論争自体は防衛核論争を克服しつつきている。現在の軍拡競争の段階で、これ以上核軍拡競争がすすんだら、人類は生き残れなくなるという考え方が、みんなの共通認識になっている。核軍縮ができなければ、核戦争不可避論を認めることにしかならないということは、平和運動、反核運動に理解ある人は、みんな思っている。しかし、政治の場の考え方は、軍備による、核兵器による安全と平和という、保守的なしたがって、横型の運動がどれだけ浸透し、それを転換させうるか、どんな政府ができても、それに軍縮による平和の圧力を、どれだけかけられるかが、今後の中心問題としてあると思う。同時にまた日本の運動が、相当大きな転換を迫られていることは、組織論においても言えると思う。

 

"被爆国日本"の運動の再検討

 

 松江 まず最初に、政策論なり運動論なりがそれぞれ出たわけだが、牟礼さんが言われたビキニ運動と反戦反核の問題には同感だ。日本の運動は、大きく分けて三つの時期があったと思う。一はビキニまで。二はビキニから八二年の国際反核運動まで。三つ目はそれ以後の今日まで。ビキニまでは広島でも占領下で反原爆反戦運動を闘った。また内灘があったし、砂川の反基地闘争もあった。ビキニ運動以来それらが逆にこの運動に収敏されて、上から組みこまれる形になった。それは、ナショナルな性格を持つ運動――被爆国日本という形で取り組まれていった。そのプラスの面としてはものすごい勢いで全国にひろがったという点もあるが、同時に被爆体験は国民的な経験ということで、国民主義的な運動として発展した。だから、被爆者は"生きていてよかった"と言ったんだが、朝鮮人被爆者のことは、ほとんど問題にされなかった。外国代表はきていても、国際的な問題はほとんど出なかった。そこに広がりはあったが、同時に問題もあった。だから、あれはビキニ・反原爆運動としてとらえるのが、むしろ正確だと思う。それに注入的に反戦をどう結合するかということを上からやろうとするから、逆にそれは市民不在になる。そういう意味で、あの運動が掘り起こした大きな源泉は、ある媒体なしには反核反戦運動に発展していけない、その媒体としては、ビキニ以前には労働者の反基地運動、反原爆運動があったが、それもビキニ運動に収敏されてしまった。

 それをもう一度再追求するいいチャンスは八二年の外からの運動とのふれあいだった。あそこから新しい運動が生まれる芽ばえはあったが、それはかならずしも十分発展しなかった。それは、国内的な危機感からというよりも、ヨーロッパの危機感を媒介にしたため、三〇万、四〇万、五〇万集会にはなったが、後に残らない。そこに歴史的に克服しなければならない問題があるのではないか。いま、それが問われているのではないか。

 国民主義的な、ある意味で自立的なものを塗りつぶす形で発展していったものは何か。ヨーロッパでは自立的なものが前提になっているし、アジア・太平洋の運動でもそうである。それを日本では運動論としてではなく本質論として、国際的なものとのふれあいのなかで探っていく必要がある。

 

 吉田 ただね、日本人一般が考えているヒロシマ・ナガサキのイメージは、ヒロシマ・ナガサキの惨禍を自分たちは受けたくない、もちろん世界の人たちにも受けさせてはいけない、という思いがある。それともう一つ、未来戦争に対する否定、核戦争に対する否定の気持ちが被爆者の間には強い。同時に、過去の十五年侵略戦争の結果がこれをもたらしたのだ、したがって過去のああいう自由がない、民主主義がない、勝手に戦争にかりたてられるような時代はいやだ。過去の十五年戦争の否定と、未来戦争に対する否定が、ヒロシマ・ナガサキというカタカナの字のなかに無音心識に組みこまれている。それで、その次なんだ。

 それは何かという場合に、抽象的には非武装憲法という形で、核のない社会を建設しよう、あるいは核軍縮により核兵器のない社会を実現しようというのはいいのだが、具体的な問題については素通りしてしまう弱さがある。

 たとえば広島・長崎の市長のアピールを見ていて、非常によいアピールでもう言うことはない。ところが、隣の岩国について心を痛めるのか、佐世保についてストレートでないにしても気持ちをどうするかということで肉迫するかというと、それはできないし、やれない。しかし、言葉自体はあれを読んだら、アピールとしては感動してしまう。それともう一つ松江さんの言った太平洋の実験の被爆者もいたということについては、非常に落差がある。朝鮮人被爆者についても、痛みはないでしょう。そのギャップがどんどん拡大しているということがある。それをまたナショナリズム大国主義があおるという形になってきている。

 

 松江 つまり広島の原体験とは、何かということだ。ラジカルな形でいえば、八時一五分の前に広島は何をしていたか、ということだ。それは広島の八・六を過小評価するので.はなしに、そういうものとしての深みのなかで、もう一回とらえなおすところに、いまの広島が何をしなければならないかが出てくると思う。

広島にいる者としては、その点をつきつめてつきだしながら、広島は何をなすべきなのか、と問い直す。

 

 牟礼 一九五〇年代に、ベルリンアピールとか、ストックホルムアピールが発表され国際的な反核運動、原水爆禁止運動が大きく高揚した。これは西欧における戦争の危機もあったが、あの時に世界の知識人が、運動をリードするような世論に対す.るアピールを大胆にやった。岩波に集まった平和懇談会の資料などを読んでも、それが日本に大きな影響をもたらしたことも現実にあった。そういう国際的な問題もあるが、国内的には松江さんもいわれたように、平和三原則とか平和四原則とか、基地に反対する運動とか全面講和の運動とか、再軍備に反対する運動とか、五〇年代の朝鮮戦争前後から日本の反戦平和の運動は非常に高揚した。また逆の意味で民主主義を守るということでは、これは原水禁運動ができてから後になるが、警職法反対闘争にしても、教育の勤評反対にしても、あのころの学者文化人の役割は大きかった。労働運動の面では総評ができ、大きく成長する過程であった。そういうものがさまざまな形で日本の反戦平和運動を大きく盛り上げる下地として存在した。それと、ビキニの水爆実験によって久保山さんが犠牲になる。それが生活の場ではマグロが食べられない、どうすればいいのかというように、平和の問題と生活が直結する。そういう点では、五〇年代というのは、今日では想像もできないような国民的な下地が、基盤が形成されていた時代であったということも考えなければならないと思う。

 今日、八○年代に入って運動が高揚してきたといわれるが、これは日本の運動ではなくて、ヨーロッパ、アメリカの運動だ。一つは中性子爆弾の製造と配備、巡航ミサイル、トマホークの配備に対し、新しい核戦争の危機が現実の問題になってきた。これが反核軍縮の運動を大きくスタート台に立たせることになった。七〇年代までは核戦争反対ということでは一致していたが、現実に核戦争がすぐ起こるということは考えられなかった。ところが、八○年代になってから、現実にヨーロッパでは自分たちのところで核戦争が起こる可能性が大きく出てきたことが出発点だ。

 日本の場合は、そういう考え方に立って自分自身が運動しなければならないというよりも、被爆国日本という発想があまりにも強すぎた。七〇年代から八○年代にかけてプロックやその他多くの人から、日本が核基地となっている危険性、核持ちこみは過去も現在もあるという指摘が何回もあったけれども、現実の危機感にはならなかった。

 さきほどから言われているように、被爆国日本、日本のビキニの役割だけで問題が済ませてきたのではないか。日本の場合は八・六とか三・一の行事をいかにこなすか、時期がくるからやらなければという、運動が行事化していた点があったと思う。もう一つ、原水禁運動にしても他の運動にしても、ほとんど政党ごとに組織がつくられている。そうして上からの動員方式、大きく言ってこの三つが日本の運動の欠陥だと思う。

 八二年の国連にいく運動にしても、まさに縦割りであり、行事の一つであった。人はたくさん集めるけれども、一人ひとりの意志がどれだけ核戦争の危機をとらえ、それを行動し横にひろげる運動であったか、われわれに責任があるわけだが、弱かったことを認めざるをえない。三月、五月、十月と、一〇万人、二〇万人、三〇万人規模の集会が三つも八二年におこなわれたが、外国の人から見ると、ちょうど「縁日のような感じだ」という批判があった。その点は、一人ひとりの自覚、創意工夫、あるいは地域の自主性などが、総合的に運動を発展させる前提なのだという運動の思考方法がなかった、たりなかったという反省につながらなければならないと思う。政党の介入とか、さまざまな欠陥が生ずるのは、こういう基本的な視点が弱かったところに、要因があるのではないのか。

 

 松江 さっき話にでた縦の運動を横にするという問題は、塊りだから縦で動くので、横につらねるためには、上からの塊りでなく、自立が前提にならなければ、連帯は出てこない。では、日本にはなかったのかというと、戦後初期の反戦運動にはあった。そうしなければ、上からのお仕着せだけでは運動はおきなかった。今日の運動の状況を打破するには、新たな次元からもう一回現状をつき破りながら、既存の運動を敵対視するのではなく、その運動に参加している人びとも含めて、本当に自立的なものを基礎にした横の運動にしていく問題と、牟礼さんもいわれた、危機があるのになぜ危機感が出てこないのかという問題とは、関係あるのではないのか。大韓航空機事件ひとつとってみても、現実にアジアでの戦争の危機は、ある意味ではヨーロッパ以上にきびしいものがあると思う。たしかにそれが、ヨーロッパのように公然と姿を現わしていないということもあるが、それにしてもみんなうすうすは感じているわけだ。そこからなぜか危機感が出てこないのは、縦の運動を横の運動に切りかえる問題と別のものではないという気がする。

 

地域からの運動の結びつきへ

 

 吉田 ぶつかっている問題は、過去を考えた場合、初期の運動は生活の運動であり、自立的な運動であった。政党はどちらかといえば、激励するというか、そういう性格を帯びていた。一九五〇年代から講和後の運動にしても、学者が全面講和を唱えればそれを下から支え、激励するという……。そこへもう一度もどすには、いろいろな障害があるのもたしかだ。そのためには遠回りのようだが、どうしても自立的な草の根的なものが、育たないかぎりできない。

 そういう転換が、今年あたりから本格的に目に見えるような形で、出てくるような気がする。たとえば三宅島にしても、逗子にしても、緑があれだけがんばっていることは注目に価する。四千人の島が、ともかく札たばで頬をたたかれてもびくとも動かないという運動は、サミットを前にしてワインバーガーも気にしないわけにはいかない。逗子で米軍宿舎反対に投票した人は一万八千人。まさに自立的な、生活に密着した、八○年代の運動の象徴だと思う。

 それと状勢で考えると、レーガンになってからの軍拡競争の政策は、核戦争を限定し管理して勝利することが可能だと、はっきり言いだしていた。しかもそれを持久核戦争体制まで持っていく。これはSDIまでつながる問題だが、実際上勝利することが可能かどうかについては、レーガン自身も世論に負けて、核戦争になればどっちもだめになるといわざるをえなくなっている。そういう意味で、根本的な核軍拡競争の転換を、どこまでも迫らなければならないところにきている。考え方も変えなければならないところにきている。その点の転換ができれば国際政治にも国内政治にも相当な圧力をかけ、変えることができるのではないか。

大衆運動自体からすれば、縦型の運動をいくら組み立てても成功しない局面が露呈しているのが、この一、二年だと思う。縦型の運動をやっている人のなかでも、運動の組み方を変えなければという反省が、出てくるのではないかと期待している。

 

 牟礼 それはいい面であり、結構なことだ。三宅島にしても逗子にしても、平和の問題と生活の問題が結びついて→体化しているところに、非常な強さがある。ところが沖縄の場合などを見ると、いままで、そういう悪い面のなかったところに中央の状勢がストレートに持ちこまれる。今度軍用地の強制収用が二〇年延長される問題でも、中央と同じように政党と労働組合の関係でなかなか統一した県民運動に持っていくことができないでいる。先日もちょっと行ってきたが、第二回の収用委員会は統一した行動がとられているのに、それが大きな形で発展していない。これはなぜかというと、中央の政党あるいは労働運動の問題がストレートに現場に持ちこまれているからだ。八三年、八四年、八五年の原水禁世界大会で露呈した欠陥が、地方にまで大きく影響するという問題が現実に出ている。たとえば労働戦線の統一問題や、政党間の政権構想問題が原水禁運動にももちこまれてくる。原水禁運動になぜこういう問題がもちこまれるのか。

 

 吉田 その通りだ。逗子ではこの問題にある程度解答が出ているがね。

 

 牟礼 そうなんだ。逗子でも三宅島でも、政党が政治的に介入して、そのなかでどうするこうするはさせない、ということになっている。しかし、労働組合にしても政党にしても、それを支えていく、支持していく、それに協力していくというシステムができていないと思う。逗子の場合、学者文化人も熱心で、それで市民、学者文化人、労働組合という、ちょうど五〇年代初期のような組み方ができている。

 

 松江 五〇年代のビキニ運動は、牟礼さんも言うように、政党からではなく市民の問から起きた。組織だって後からできた。あれは地方から起きた運動だ。杉並だって地方なんだ、東京の。ところが割れる時は、政党から、組織から、中央から割れている。割れる時に一番はっきりそういう形が出てくるというのは、日本の政党の衰弱とともに、代行主義がある。協力してどう運動を発展させていくかというより、できたものを取りこまないと気がすまない。その最たるものは共産党だと思うのだが、この悪いくせは社会党にもうつっていった。

 広島でも海田湾埋め立て反対の市民の長期にわたる運動がある。自然と生活が結びついた運動で、政党がはいらない間は運動は発展したが、政党が介入するとだめになる。運動が発展してくると代行的に取りこまれ、挙句のはては政党的な分岐が住民運動の分岐をつくっていくという旧来のパターンになっていく。吉田さんがいうように、これは何とかしなければいかんという状況が生まれつつあるのではないか。

 

 吉田 六〇年代の経験をへているし、七〇年代の経験もへているので、その経験からいうと、たとえば社会主義国のなかの対立からも平和運動はもろに影響を受けている。それがどういう対立であろうと、民主的に自立的にやっていくというのがベトナム反戦運動からの経験だ。アメリカの運動なども、まさにやらざるをえなくなって議会に圧力をかけている。ヨーロッパの運動はそういう経験をしているから、ブロック反対という形で反核運動が出てきている。日本の場合もそれらの経験がどう生かされるか、というところにきている。

 

 牟礼 その点では、運動に対する本質的な一人ひとりの自覚あるいは自主的な創意、工夫がもっと強まらなければだめだ。

 たとえば仙台の西宮弘さんの運動。西宮さんは市内で毎日一時聞、反核・平和・軍縮の辻説法をつづけている。また宇都宮徳馬さんも『軍縮』を毎月発行しているし、学者のなかにも『現代の軍縮』などさまざまな論陣をはっている人たちがいる。

 このような運動がどんどん全国にひろがり、それらの運動が全国的なネットワークをもっていけば、政党の介入にも対応していける。そうでないと、政党や団体とは一線を画しておかなければというような問題がつねに生じてくる。

 このような地域の自主的な運動が、国際的な運動と交流し、共同の行動を発展させられるかだ。今までの世界大会の外国代表にしても、半分以上は政党系列で呼ぶか、団体.で呼ぶか、金を出して来てもらうかだった。運動をやっている同士が本当の共感をえられるような国際代表でなければならない。

 

 吉田 草の根の運動は、西宮さんの会へ行って見ると、よくわかる。人びとは自分の反戦の思いで集まっている。宮城県の副知事をやり、社会党の国会議員を三期やった西宮さんは官僚組織のこともよく知っている。社会党の運動や県評の内情もよく知っている。その彼の結論は、草の根の運動から変えるしかないということである。一人でチラシをつくり、辻説法をやっている。この正月、西宮さんのところでひらかれた会には、八○名参加していた。その三分の一は西宮さんの知っている人、三分の二はチラシに誘われた人だった。若い人も多かったが、みんな問題意識を持ち、非常に活発な議論をやっていた。

 また、私は自立的な平和運動の草の根を発展させなければということで、全国あんぎゃをやっているが、その一つとして名古屋のカトリヅク教会の労働者の話しあいに出たことがある。ほとんどがトヨタの下請けで働いている人たちだが、夜の九時から集まって家族ぐるみ、たのしい話し合いをもっていた。そしてこの人たちは日曜日には"普通の人が普通のことを考える平和のつどい"というのを手づくりでやっている。核の問題、平和の問題もあれは、フィリピンのことを考えてみようとか、自分たちの労働条件の悪さについてイタリアやスペインからの出稼ぎの人たちをふくめて、クタクタになりながら、自分たちのおかれている状況を変え、平和をつくりだす仕事を手づくりでつくりだそうとしている。

 

「自立と連帯」で広がる運動の輪を

 

 松江 若い入たちの運動は、相互に不干渉、不介入でありながら、いっしょにやれるところはやっていこうということで、ベタッとした一枚岩的なものではない。そういう運動がそだちつつあるし、これから大いにでてくるのではないだろうか。だいたい、本当の統一というのは、それぞれに相違があるから行動の統一だよね。その辺をはっきりさせられずにいたところから、ベタッとした一体でなくなると、すぐ敵だということになっていた。そういう思考とはなれて、それぞれが自立的な運動ではあるが連帯して横の運動をつくっていこうという、日本の歴史的な運動を前向きに克服していくひとつの試金石が実は反核運動のなかに端的にでていると思う。

 

吉田 私はそれを「自立と連帯」と表現するのがいいと考えている。それぞれに意見の相違はあるわけだから、ひとつにしばるのではなく、あるがままに重層的に、それぞれのイニシアチブを認めあい、激励しあっていくことだと思う。

 先日の"核兵器廃絶運動連帯"のつどいの席で、茨城の石野久男さんが、反原発を核兵器廃絶と一体と考えているが、ここではどのようにとらえているのかと提起した。これに対して伏見康治さんたちは、原子力はいいものに利用すればいい、悪いものに使うからいけないとの立場にある。双方の間には核兵器廃絶といっても違いがあり、入口に原発反対という門枠をつくってしまったら、そこから引き返してしまう人も当然でてくる。双方が、その相違を理解しあって論議をすすめることは、当然といえば当然だが、話合いの場、連帯の場のあり方にふさわしいものだった。

 安保の問題でも同様だ。逗子の緑の人たちは自分の運動をやればやるほど、政府の側は安保を切り札にだしてくるおけだから、それにぶつからざるをえなくなり、安保っていったいなんだということになってくる。それをわきから眺めていて、緑には安保という入口がないからだ

めだという人たちもいる。

 根底に安保反対、自衛隊反対がないから、あの反核署名はだめだ、質の低いものだというのではどうしようもない。入口にその、門枠をつくってしまって統一を求めるとしたら、運動は無限にせまくなるし、統一自体の中身そのものがなくなるわけだ。率直に言って、私たちは、それをくりかえしてきた。いま、三宅島でも逗子でもその問題をかかえている。しかし実際にやっている人はそれを切りぬけていかなければならないところにもあるわけだ。

 

 牟礼 それは五〇年代の運動が多様な基盤のうえにあったということと関連する。平和運動とは自衛隊のことであり、安保は福祉や教育の問題とつねに結びついていた。たとえば防衛費のGNP%問題をとっても福祉や教育予算に直結している。軍事大国化への道には必然として天皇制の問題もでてくる。それこそクモの糸じゃないけどからみあって、ひとつの社会、ひとつの世界があるわけだから、運動もさまざまに展開されて当然だ。それも互いに認めあうのが前提で、しかもそれぞれが自主的にやっているのだから、双互にその中身への干渉はあってはならない。

 最近、共産党は非核政府をつくろうと訴えているが、安保の容認、自衛隊を認める人はだめだと言うのでは非核政府構想は生まれてこない。あれはだめ、これはだめと言うのではなく、反核で一致するすべての人びとを大きく結集することが大切だ。つねに自分だけのものさしで、個人や団体を排除の対象にしていては非核政府なんてできっこない。天皇や靖国問題などさまざまなことがらが平和と民主主義にひろくかかわるわけだから。この座談会でも求められている運動の中身ということについて、議論すべきは議論し、いっしょにできることについては統一していくという運動の原則は大事に.していきたい。とくに護憲連合にかかわる私たちにしたら、反核、軍縮の究極は軍備を廃絶することによる平和、となる。核兵器をなくすことによる平和―軍縮による平和−を保障する国際的な秩序、国際的な民主主義をどうつくりあげていくのかが、世界の人民の共通の課題だろう。

 

 松江 政策論的にも運動論的にも、一枚岩主義というのは政党による危機感の代行主義的な請け負いと深くかかわっているんじゃなかろうか。ぼくも広島でコシアンではなくツブアンの運動をつくろうやと言っているが、どうも年齢のせいもあってコシアンに馴れているものだからそれがちょくちょく出てくる。ところが若い人たちは、それぞれがツブであることを前提にしている。手をにぎりあえたからといって、自分のものをすてはしない。

 このことがぼくには前途を明るくしている。極端な言い方になるが、今日の事態は、発端がどこにあろうが、すべて反核・平和に至るような状況におかれている。逗子の運動は、その意味では緑から基地に至るというひとつの新しい形だと思う。また失業や賃金も反核・反戦に至る。思い切った内容、多元的な運動があっていい。そこに統一もはじめて生きてくる。

 

 牟礼 国際平和年にあたっての国連の提起でも内容は実にバラエティに富んでいる。これだけ内容が多岐にわたると、お互いにそれぞれの運動を認めあわなければやっていけない。これは国際社会ではあたりまえのことでもあるわけだ。

 

 吉田 国際平和年の運動にしても開発、人権、教育なども核兵器禁止の問題と不可分に結びつく必然性が出てきている。

 

 牟礼 七八年の国連軍縮特別総会の合意文書にもさまざまなものがはいっている。それをつみ重ねていけば必然的に軍縮へ至り、軍備に依存しない平和というストーリーが出来上がることになっている。

 

今後の運動を展望して

 

 松江 日本の運動の自立性の弱さということでは、ヨーロッパで感じたことがある。乳母車をおしながら"人間の鎖"に参加している人たち。そこでまた、西欧志向になるというだけではすまないという問題が出てくるわけだが……。日本の場合、アジア・太平洋地域の民衆との連帯を歴史的にどうつくりあげられるかのなかで、自立を追求していかなければならないし、それが日本の運動の自立ということにもなるのではなかろうか。

 あのビキニのときの運動は官民一体だったものね。今日の事態での運動が官民一体でごまかされてはどうしようもない。その意味で個々の運動の自立と連帯は同時に日本の運動の自立と連帯でもある。それがあってはじめて国際連帯の展望もでるわけで、日本の運動は重要な転換期でもある。

 

 吉田 一〇年前のベトナム戦争とは異なった、発展した意味でのフィリピンを見たわけだ。日本がマルコスを助けてきたことが、同時にどれだけ同国の腐敗、権力の維持にかかわっていたのかは、フィリピソで運動をしていた人たちから指摘されてきたことでもある。これは第三世界の民衆と日本とのよりよいかかわり方を求めるには、民衆の運動が日本政府をチェックする以外にないことを示しているし、われわれの運動の側の大きな責任問題でもある。

 

牟礼 七〇年代から八○年代にかけて、日本にはそれなりの運動はあるが、停滞と考えていい。私は五〇年代から運動にかかわってきたが、今日ほど大衆運動がないことはなかった。

 

 吉田 たとえば今回のレーガンのリビア爆撃に対しても抗議行動が起こっていない。

 

 牟礼 そうなんだ。たとえば三宅島でも逗子でも運動はあるが、それを政治的に結集した効果的な大衆行動がくまれていない。このことについて中央の指導部はもっと反省しなければならない。私自身の反省ということもふくめて、中央のものの考え方――中曽根内閣成立以後どうのこうのではなくて、これをもたらしたものがなんであったのかについて、もっと深刻に考えなければならない。経済大国主義国・日本自体が中曽根的なものを容認しているわけなのだから。中曽根流の「自由主義陣営における日本の国際的責任と役割」、とくに最近の円高傾向などにまきこまれて、語弊があるかもしれないが、半分企業といっしょのような労働者、労働組合が出現している社会状況についても大いに議論されなければならないし、それにどう対応していくかもオープンに論議されていかないと、日本の反戦平和運動、反核軍縮運動の進展も期待できない。

 

 吉田 そこで、こんど"草の根のつどい"をやるについて、意見がよせられているのは、九月十八日=十五年戦争の勃発の日を草の根平和運動の原点とすべし、ということ。ヒロシマ・ナガサキの被爆もたいせつだが、それは九・一八からの八・六、八・九、八・一五であって、きのうからきょう、きょうからあしたへ、たいした変わりはないんじゃないか、まさかそこまで行きはしないだろう、の結末であったということ。

 今日の状勢もまさに同じで、実際にはSDI への参加も民間協力優先で進展している。むかしのように軍服をつけた軍国主義・帝国主義ではなく、日立の労働者と自衛隊員は姿を見ただけでは区別できない。それだけに根っ子のところをおさえないでいると、こっちの身動きができなくなってしまう。まだ間にあうだろうが楽観はできない。日本の軍国化がすすむ一方で第三世界の貧困の問題は解決していない。貧困からの解放、平等化は必然性をもっているのだから、第三世界の民衆はだまっていない。その反撃をうけてから気がついたのではおそい。

 また最近、皇太子の訪韓、さらには中国など社会主義国への訪問が国家間のこととしてすすんでいるが、民衆同士がしっかり手をつないでおかないと、逆に民衆同士が反目しあうことにさえなりかねない。

 

 松江 日本の場合、政府もそうだが、われわれの側にも、自立といっても、変わるのに、内からより外からの刺激が大きな要因となることが多い。それを拒否するわけじゃないが……。

 

 吉田 世界もせまくなっているのだから、それはそれでいいと思う面もある。要するにベルリンに壁をつくっても鳥たちに国境はないわけだし、平和運動も同じだ。互いに学びあい、協力と連帯だ。

 

 松江 すでに言われているが、反戦平和の運動にかぎらず、労働運動の重さがもろにひびいているね。「職場から、職場から」と、縦からだけでなく、横からも見て、たとえば地域の反核運動のなかに労働者も.参加していくというようにならなければね。日本ぐらい労働組合の中に労働者が囲い込まれるというか、枠をはめられて平和運動に参加したり、動員されるのはよそにはない。

それぞれに苦労しながら、ある場合には組合の弾圧をくぐってやっている。その意味では困難ではあるが、いまからやっとほんものの運動が始まるわけだ。

 

 牟礼 私たちにとっていい経験だったのは靖国問題だ。護憲連合としては一貫して反対してきたわけだ。靖国参拝が、中曽根流に言うと、「国民感情であり、なぜ悪い」ということになる。われわれの国内の運動が弱くて、中曽根の靖国参拝をやめさせることはできなかったが、問題が表面化するとアジアの人民がだまっていないということを知るべきだ。日本国内だけでなく、国際的次元でつねにものを見、聞き、とらえていかなければならない時代になっている。

 反核軍縮の運動にしても、もっとも共通性、連帯性のある運動だ。したがって、こまかいことにこだわらず、もっと自由に議論しあっていくことによって、いまの運動はいろいろと欠陥もあるけど、大きくなっていく可能性に期待している。それが人類の生きていく方向でもあるわけだから、これはなにがなんでもやりとげなければならない課題でもあるわけだ。

 

 吉田 その意味で、ことしの八月に向けて、あるいは八月は、どれだけ大きく現状にあった転換をしていけるかが問われている。

 

 松江 それと、お互いにかかわっている運動が、なんらかの形で連帯していける雰囲気をつくること。去年広島でわれわれのやった集会と平和事務所が東京でやった草の根のつどいでも連帯の交歓ができていかなければ……。

 

 牟礼 七七年から八三年まで、それなりにいっしょにやってきた原水禁の世界大会が、なぜうまくいかなかったかと言えば、中央の団体間の一日共闘みたいなものだからだ。各県、地域での共闘がないからだ。まず地域での共闘を定着させること。それができてくれば中央の団体間ですこしくらいの問題が起きてもどうってことないし、第一にそれを無視して中央の団体が勝手に動くことはでぎなくなる。ところが現在は、砂上の楼閣どころか、なんにもないところでの統一であったことをそれぞれが反省すべきだ。

 

 松江 広島からの批判は、東京の机のうえでつくって、それを現地にもってきて、一荒れ吹いたあとは砂漠になってしまうということ。

 

牟礼 集会の宣言やアピールがたくさん出たところで、それはそれぞれの団体の勝手な選択課題であって、それをいっしょにやろうというわけにならない、その場だけのものになっていた。

 統一大会は大事ではあるが、真の統一でもないし、力にもならない。

 

 吉田 それをすこしずつでもと考えている人たちがたくさんいるわけだから、ことしはすこしでもその方向へ行くことを期待している。

 

 牟礼 おととし、きょねんあたりから、その芽はそだってきている。それの全国的ネットワークもつくろうとの気運もでてきているから、平和事務所にも期待している。

 

 吉田 平和事務所がいままでつづいているのも、ある人たちにしたら奇妙なものかもしれなが、みんなが発言し、参加するなかで持続していく。

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